育児とは育自、自分を育てることだとよく聞きます。
つくづく、実感します。
ベビーの世話に始まり、次の段階、どういう教育方針を持つかになると、よりそれを実感します。
正解はないと頭ではわかっている。
子どもは別個の人格と人生があることも、重々承知。
願わくば、勝手に好きなこと見つけてご飯を食べていける、自分の足で立てるオトナになってほしい。理想です。
しかし、まるっきり放ってもおけない。
親としてその最大限の機会をサポートをするにはどうすれば?と考え始めるわけです。
正解はない。
どんな環境であれ、その場で花を咲かせていける子になってほしい。
でも、心の奥底で、
親として、これが正解!と思う道をまだ子どもが小さいうちは親がそれとなく指し示さねばと思うから、
迷いが出てくるんですよね。
当然、自分が生きてきた人生を振り返ります。
なんでがんばることが大事だと思ってたんだろう?
なんで勉強したほうがいいと思ったのかな?
一生、仕事をするんだって、なんで迷いもなかったんだろう?
小さい頃から、いい人と結婚してお嫁さんになる、と夢見たことがありませんでした。
こういう職業の男性と結婚するのがいいよね、的な女子トークにむしろ激しい嫌悪感を覚え、
憧れくらいなら自分がなればいい、と思っていました。
いま思うと、力入りすぎ、歯を食いしばりすぎですよね。笑。
玉の輿、大いにありじゃないですかぁ。今となれば。
道は自分で切り拓くもの、ハードルは高ければ高いほど挑戦しがいがある、と信じて生きてきました。
書いてても恥ずかしいな。力抜けよ。笑
それはそれでよかったと思う。
今の自分にOK出しながら生きられるてるから。
と同時に、自分が大事だと思ってきた価値観は、自分を守る鎧のようでもあります。
傷つきたくないのよね。やはり。
社会に出て、また子どもを産んで多様な生き方をしている人を見て、
自分の鎧はなんだったんだろうと思うこともあるわけです。
自立とか、価値ある仕事とか、学歴とか、裕福とか、親の社会的位置だとか、美貌だとそれぞれ、なんだとかあれだとか、
人によって十人十色、
様々なギフトがあるものだ、
わたしの鎧はちっぽけだな、と
半ば泣き笑い的に笑ってしまいたくなることもあるのです。
一旦自分の人生では手放したつもりの価値観の鎧が、
こと育児になると、もう一度自分の心を支配し始めていきます。
親や先生から教わってきたことを、再生産しようとしていく。
心がうようよ迷うときは、
ありえない!そんなのない!と拒絶したくなることに、ちょっと耳を傾けてみようと思います。
わたし、知らないで生きてきた価値観、ちょっと教えてほしいな、
へー、そんないいこともあるんだ、やっぱりしんどいこともあるんだ、
知らなかったけど、教えてくれてありがとうって思いながら。
育児が、成人までの20年のプロジェクトだとすれば、
どんなオトナとして社会にお返しできたらいいかな、
いつもそれを忘れずに大きく育児したいと思いながら、
自分が無意識にまとってきた鎧を一旦脱いで、
ストレッチするくらいの余裕をもてればいいな。
ひとの可能性は無限大と親が信じなくてどうする、と自戒もこめて思いますからね。
なんてことをぼんやりと考えていたら、その波動が息子に伝わるのでしょうか、
ママさー、遊ぶときはもっとシンケンなほうがいいけど、他はもっとテキトーにやれば?
とのこと。
おっしゃる通りかもしれません。
つくづく、実感します。
ベビーの世話に始まり、次の段階、どういう教育方針を持つかになると、よりそれを実感します。
正解はないと頭ではわかっている。
子どもは別個の人格と人生があることも、重々承知。
願わくば、勝手に好きなこと見つけてご飯を食べていける、自分の足で立てるオトナになってほしい。理想です。
しかし、まるっきり放ってもおけない。
親としてその最大限の機会をサポートをするにはどうすれば?と考え始めるわけです。
正解はない。
どんな環境であれ、その場で花を咲かせていける子になってほしい。
でも、心の奥底で、
親として、これが正解!と思う道をまだ子どもが小さいうちは親がそれとなく指し示さねばと思うから、
迷いが出てくるんですよね。
当然、自分が生きてきた人生を振り返ります。
なんでがんばることが大事だと思ってたんだろう?
なんで勉強したほうがいいと思ったのかな?
一生、仕事をするんだって、なんで迷いもなかったんだろう?
小さい頃から、いい人と結婚してお嫁さんになる、と夢見たことがありませんでした。
こういう職業の男性と結婚するのがいいよね、的な女子トークにむしろ激しい嫌悪感を覚え、
憧れくらいなら自分がなればいい、と思っていました。
いま思うと、力入りすぎ、歯を食いしばりすぎですよね。笑。
玉の輿、大いにありじゃないですかぁ。今となれば。
道は自分で切り拓くもの、ハードルは高ければ高いほど挑戦しがいがある、と信じて生きてきました。
書いてても恥ずかしいな。力抜けよ。笑
それはそれでよかったと思う。
今の自分にOK出しながら生きられるてるから。
と同時に、自分が大事だと思ってきた価値観は、自分を守る鎧のようでもあります。
傷つきたくないのよね。やはり。
社会に出て、また子どもを産んで多様な生き方をしている人を見て、
自分の鎧はなんだったんだろうと思うこともあるわけです。
自立とか、価値ある仕事とか、学歴とか、裕福とか、親の社会的位置だとか、美貌だとそれぞれ、なんだとかあれだとか、
人によって十人十色、
様々なギフトがあるものだ、
わたしの鎧はちっぽけだな、と
半ば泣き笑い的に笑ってしまいたくなることもあるのです。
一旦自分の人生では手放したつもりの価値観の鎧が、
こと育児になると、もう一度自分の心を支配し始めていきます。
親や先生から教わってきたことを、再生産しようとしていく。
心がうようよ迷うときは、
ありえない!そんなのない!と拒絶したくなることに、ちょっと耳を傾けてみようと思います。
わたし、知らないで生きてきた価値観、ちょっと教えてほしいな、
へー、そんないいこともあるんだ、やっぱりしんどいこともあるんだ、
知らなかったけど、教えてくれてありがとうって思いながら。
育児が、成人までの20年のプロジェクトだとすれば、
どんなオトナとして社会にお返しできたらいいかな、
いつもそれを忘れずに大きく育児したいと思いながら、
自分が無意識にまとってきた鎧を一旦脱いで、
ストレッチするくらいの余裕をもてればいいな。
ひとの可能性は無限大と親が信じなくてどうする、と自戒もこめて思いますからね。
なんてことをぼんやりと考えていたら、その波動が息子に伝わるのでしょうか、
ママさー、遊ぶときはもっとシンケンなほうがいいけど、他はもっとテキトーにやれば?
とのこと。
おっしゃる通りかもしれません。